その日、一条寺晶一は眠れなかった。
 明日から「ふ〜研」の合宿が始まると思うと、ぱっちりと目が冴えてしまうのだ。と、言ってもなにも遠足の前の子供のようにわくわくしている訳ではない。さして厚からぬ彼の胸板の内を騒がせているのは、ただただひとつの期待だけなのだった。
──明日からあいつに会えるんだ!──
 長い夏休み、あいつに会えない日々の何と空虚だったことか。
 と、言うても別にそう長いこと会えなかったと言うわけでも無いんだが。夏休みの前半は補習で毎日顔を合わせていたし、終わってからは、やれプールだ、映画だ、たれぱんだ屋だ、ラーメン屋だと何かにつけては引っ張りまわしていたような気がする。あまつさえ、買い物にかこつけてデパートに出かけた日にゃあ苦手なはずのお化け屋敷にまでなだれ込んでしまった。
 それでも足りない、会えないと寂しい、物足りない。いつでも声を聞き、顔を見、あいつの名前を呼びたい。いつもは洒落のめしてあだ名で呼んじゃいるけれど、ほんとはファーストネームで呼んでみたい。許されるものなら、24時間ひっついていたいっ。
──何てこったい。おれ様としたことが、これじゃあ、まるで、まるで…──
「恋、だね。」
「のああっっあ、あ、姉貴っ」
やにわに部屋のふすまがからりと開き、姉の奏(かなで)が入ってきた。手には白黒のくったりしたぬいぐるみをかかえ、全身からただならぬオーラを漂わせている。
「いつのまにっっ」
「ふっ甘いわ晶一。お主ごときに気配を悟らせる私と思うてか。」
晶一は、幼少のみぎりからこの姉が大の苦手であった。それは経験と本能から逆らわん方が安寧な人生をおくれると悟っているからで、断じてシスコンなどと言う生易しいものではない。
「それより晶一。君、誰かに恋してるね。」
「じょ、冗談じゃねえ、何を根拠にそんな事っ」
「あたしゃ、恋愛沙汰のプロだぞ。」
「ただの極甘ロマンス小説書き散らしてるだけじゃねえかっ」
その怪し気な性格に似合わず、姉の職業は、少年少女のハートの揺れ動きとみずみずしい感情描写を売りとするジュニア小説家だった。(最近は必ずしも組み合わせが男女のみに限られなくなってきたようだが)
「さあ、きりきり白状せい。相手はどんな女の子だ?」
「う、うるせえっ」
茶色がかった髪の毛をぐいっとかきあげ、そっぽを向く。
「姉貴にゃ関係ねえだろっ」
「ほう、姉には言えぬか…では」
その瞬間、目の前に突き出されたのは。
ふくよかなほっぺ、まんまるの目、気のぬけた顔、役に立ってるんだか立ってないんだかわからない鼻。
「このわっふるたれぬい(大)にも言えぬと申すか?」
「や、やめろ…」
晶一は幼少のみぎりから、ぱんだにも滅法弱かった。
「ほぉら、わっふるたれぱんだに打ち明けてごらん…ほら…」
「うっ…」
たれぱんだの目を見ていると、すうっと理性が吸い込まれてゆく…
「俺…俺…」
じっと見つめ返すたれぬいの目に、ふとあいつの面影が重なる。
「だあっだめだっやっぱり言えねえっ」
「あ〜こりゃ重傷だわ…」
すっかり我を失い暴れる晶一の耳には、もはや姉の突っ込みは届かなかった。
「この分だと相手は、十中八九、野郎だね。」

*      *      *

「青い空!白い砂浜、輝く海!」
結局、あのあと晶一は眠れなかった。
「暑い焼そば、冷たいかき氷!」
そんな訳で、赤いうさぎさんのような目を、コンビニで買ったグラサンの下に隠して今、歩いている。
「どこをとっても完璧だが…この空しさは何?」
口ではこう言ってはいるが、実のところ彼の胸は空しいどころの騒ぎではなかった。
「海の家はどこーっっ」
「霜月…オノレは食うことしか頭にないのか…」
さっきから横でムードもへったくれもない事を唱和している少女は霜月由布。剣道部の一年生で、晶一の後輩である。見た目はリスのように愛くるしい少女なのだが、実のところかなり、その…色気より食い気が勝っている。(それでも太らないのはクルクルはしこく動き回るからだろう。)
「なあにやってんのよ、晶一。」
「え…?」
お祭り男の『空しい』発言はよほどインパクトがあったのか、アン子と碧が振り返る。
風に飛ばされかけた麦わら帽子を片手で押さえる仕種が、まるで昭和の少女絵みたいで思わず晶一はどきりとした。
「俺の心をときめかす、水着のおねぃちゃんが一人もおらんではないかっ」
が、しかし口はいつものとおり。
「全く、こいつは…」
呆れた口調でやれやれとつぶやくアン子。
「……とーやも残念?」
『とーや』と言う呼び掛けに反応し、自然と視線が後ろに行く。
あいつは、少しとまどってから、ゆっくりと頷いた。
「やっぱりそう思うか、ひーちゃん!」
本当は、それは由布の『海の家』に対する返答であることも、ちょっとばかし反応がおくれちゃったせいであたかも己の言葉に同意したように見えただけであることも、彼にはこのさいまるっきり関係なかった。ただ、自分と同じ考えをしていたことが無性に嬉しい晶一であった。
 あまりに嬉しかったから、ついつい、がしっと抱き着いてしまった…ひーちゃんこと、飛竜薫夜に。その瞬間、アン子が構えたカメラのシャッターを素早く切ったことなど、有頂天になった彼は知る由も無かった。