「くおらっ廊下を走るでないっ」
撮影は終わったはずなのに、いまだに爽風からは引率モードが抜けない。
スタッフの心遣いで出演者一同、一足早く風呂に入れることになったのはいいんだが、唯一の大人仲間である青葉が熱射病プラス脱水症でぶっ倒れたため、一人で子供らを風呂に引率するハメになったのだ。何故かこの旅館、風呂場だけ妙に離れた場所にあるため、延々と長い廊下を歩いてゆかねばならない。そして、廊下を見れば走りたくなるのが人情と言うやつである。
「走るなとゆーとるにっ」
もう一度声をはりあげたあと、ふうっと爽風はため息をついた。とことこと、そのそばに渉が歩み寄る。
「こーゆーときはありがたいよ、お前のおとなしさが」
渉はそろっと手を伸ばすと、爽風に触れた。
「たっち」
「は?」
「鬼ごっこ」
「そっか……鬼ごっこしてたのか……」
にこっとほほ笑むと、渉はぱたぱたと透と宏美を追い掛けて走り出した。
「ってこたぁ、俺が鬼かいっっ」
「負けたら風呂上がりの牛乳、おごりですよ〜っ」
廊下の彼方で、透が叫ぶ。
「あ、ボク、フルーツ牛乳がいいなっ」
無邪気な宏美の言葉が追い討ちをかける。
「オノレらっ」
先刻、走るなと怒鳴ったこともけろりと忘れ、ベン・ジョンソンばりのダッシュで走り出そうとしたその刹那。
出たのだ。
と、言ってもドーピング反応ではない。
「あれまあ、あんた、そのワラスども連れて風呂さ入るかね」
いきなり、ぬうっと暗がりから旅館と同じくらい古いんじゃなかろうか、と思えるばーさまが、皺だらけの顔を突き出したのである。
(ま、マスター・ヨーダ?)
「いかにも、あたしゃ増田ヨネだがね」
「ってあんたどこの生まれやねん……」
軽く突っ込みを返してから、爽風ははた、と気付いた。
「あ、頭ん中で考えてることにつっこまんでくださいっ」
「細かいことは気にするでない!」
一瞬、爽風は得体の知れぬ威圧感を目の前のばーさまから感じてしまった。(フォースか?)
「は、ははあ」
「それより、あんた。気を付けなされ」
びしっと爽風は背筋を伸ばした。
「いや、そうでなくて」
「すいません、つい」
「あの風呂は……危険なのじゃ」
「って、まさか床が滑るとか、湯舟の底が抜けるとか?」
「そぉ言う危険ではないっ。あそこには、昔から……」
心無しか、急に周囲が暗くなったような気がした。
「出るのじゃ……」
「で、出るって、ナニが?」
「あの年頃の子供たちだけで入ると……出るのだ」
「だからナニが出るって言うんですかっ」
「聞きたいか?」
ずいっとばーさまがアップで迫る。
「い、いえ、遠慮します」
「まあ、付き添いがおれば大丈夫であろ」
うんうん、と頷くと、ばーさまは袂から何か小さなものを取り出した。
「何かあったら、これをお使いなされ」
「あ、ありがとうございます」
爽風は受け取ったものをまじまじと見た。黒と白の平べったい石だった。見ようによっては、何か動物のようにも見える。
「あの、これは一体……」
ふと顔をあげる。
ばーさまの姿は、どこにもなかった。
カラリと戸を開けると、むわっと白い湯気が押し寄せてきた。
渉はうっとりと風呂場を見渡した。
ロケ隊の泊まる旅館は古かった。しかし、どこもかしこもつやつやに磨き上げられ、夜具も浴衣もよく手入れされ、さらさらして心地よく、快適そのものだった。
風呂場もその例外ではなかったのだ。
「うっわ〜ひろ〜い」
宏美が歓声をあげる。
「やっぱり、旅館の風呂つったらこうでなきゃな」
透が生意気なコメントをする。
「よし、入る前に体、洗おうぜ。でないと、おっさんがうるさいからな」
「そーだね、昨日もたいへんだったもん。湯舟にタオルつけるな〜っとか、耳の後ろもあらえ〜っとか」
「ほとんど修学旅行の引率だよな、あれじゃあ……」
それぞれ洗面器と椅子を確保すると、透と、宏美と、渉は、わしゃわしゃと石鹸を泡立てて体を洗い始めた。
「ね〜、透くん」
「ん、なんだ、渉?」
「ケロリンってなーに?」
「……」
透は手を止め、しみじみと自分の使っている半透明の洗面器を見つめた。
「洗面器のことじゃないか?」
「ふうん」
「ま、気になるなら、あとで真庭のおっさんに聞いてみよーぜ」
「うん」
そして再びわしゃわしゃと洗い出す。
暗い天井裏の片隅で、そいつはひっそり目をさました。
微かに響く子供の声、ぱしゃぱしゃと水の跳ねる音、石鹸のにおい。
そいつは本能的に悟った。
獲物がきたのだ、と。影よりも静かにそいつは起き上がると、隠れ場所から這い出した。
「よし、背中流してやるからこっち向きな」
「うん」
「じゃ、透くんのは僕がやったげるね」
「さんきゅ」
三人は一列になって、お互いの背中を流し始めた。
誰も気付かない。
するすると頭上に、黒い影が迫っていることに……
(何だ、これは?)
ようやく脱衣所に辿り着いたその瞬間。爽風は皮膚が泡立つような寒気を感じた。
五感をことごとく圧迫するその得体の知れぬ感触は、風呂場のほうから漂ってくる。
『あの年頃の子供たちだけで入ると……出るのだ』
ばーさまの言葉が脳裏にフラッシュバックする。
「まさか!」
「ほい、終わり」
透と宏美は手桶に湯を汲み、ばしゃっと相手の背中にかけた。
つるりとした背中に、透き通った湯が跳ねる。
天井に張り付いたそいつが、ずるり、と身を乗り出した。
「交代しよ」
「そ〜しよっか」
「うん」
三人が向きを変えたその瞬間。
ぽたり、と天井から雫が落ちてきた。
「ひやっ冷たいっ」
宏美が飛び上がり、首筋に手をやった。
「なんだ、湯気か?」
「違うみたい……なんか、ねばっとしてるよ、気持ち悪いなあ」
「雨漏りでもしてんのかなあ」
三人は天井を見上げた。
そこに見たものは!
「きゃああっ」
「わあっ何だこれっ」
「どうしたっ」
がらっと戸を開け、爽風は風呂場の中に飛び込んだ。(悲鳴に対する条件反射)
一瞬、彼は己の目が信じられなかった。
天井に何やら黒い影がへばりついている。そいつは、断じて人間ではなかった。
荒木飛呂彦の漫画じゃあるまいし、第一、人間の関節が、あんなふうに曲がる訳がない!
(な、なんなんだ、あいつはっっ)
黒い影は、にたりと口をゆがめると、ずるずると赤黒い舌を(そう、多分舌なのだろう)を伸ばしてきた。
一糸まとわぬ姿で震える(風呂場なんだから当たり前)透と、宏美と、渉にむかって。
「たすけてえっ」
「く、来るなあっ」
「いやっ」
子供たちの必死の悲鳴を聞いたその瞬間、爽風はハっと我に帰った。
『何かあったら、これを使いなされ』
手の中の石を握りしめると、彼は大きくふりかぶり、投げた!
「悪霊…退散っっ!」
びしっと石が影に当る。
「みゃーーーーーっ」
まばゆい閃光が走り、その外見からは想像もつかぬような可愛らしい(?)悲鳴が響く。(何せ風呂場だ、音響効果は抜群だ)
視界が戻ったとき、黒い影は消えていた。
「だい、じょう、ぶ、か?」
「う、うん」
「何……だったんだ、あれは……」
その時、ひらりと何かが天井から落ちてきた。
「ん?」
湯舟の中でふわりと広がるそれは、一枚の白いタオルだった……
「まあ……古い建物だから、ね」
それですますか。おい。
「やれやれ、えらい目にあってしまった……」
「でもお風呂は気持ちよかったよね〜」
「ああ、さんざん汗かいたからな」
言いながら、爽風は首筋に、背中に、ぱたぱたとシッカロールをはたいた。
「あ、いいにおい」
「宏美ちゃんもつける?」
「うんっ」
ぱたぱたと白いパウダーが火照った首筋を、背中を優しく包み込んでゆく。
「透も使うか?」
「あ、俺は自分用のがありますから」
言いながら、透は、ぷしゅっとデオドランドスプレーを吹き付けた。
「んなもん持ってきたんかい」
「男の身だしなみですよ」
「ほ〜お。歯ブラシ忘れてきたくせにねぇ……」
「っっ」
(……勝った)
既に十三歳と同じレベルで張り合ってる時点で終わってるような気もするのだが。つかの間の勝利に酔う爽風の服のすそを、ちょいちょいと引っ張る手があった。
「ん?どうした? なんだ。まだ服着てないのか、渉」
「つけて」
渉は白い小さなプラスチックボトルを渡すとくるりと背中を向けた。
「はいはい、汗疹止めね……」
背中に、首筋に、ぺたぺたとベビーローションを塗り付ける。
「こら、逃げるな」
「だって。くすぐったいよ……」
「ええい、自分からやってくれっつっといてっ。押さえろ透っ」
「らじゃあっ」
きゃあきゃあ言ってる所に、脱衣場の入り口から監督の声が響いた。
「こら、風呂場で遊ぶんじゃないっ」
「……ごめんなさーい」
「さーい」
「すぐ出ます」
「他所のお客さんに迷惑だろ?」
「すんません」
「って真庭ちゃん……何で、君まで」
「つい」
「さーて、湯上がりに一杯やるかあ」
「真庭さんのおごりねっ」
「あーはいはい、なんぼでもおごったりますよ牛乳ぐらい」
風呂場を後に、旅館に戻ろうとした時。
「おーい」
「あ、監督だ」
「脱衣所に、ぱんつ忘れたの、誰?」
互いに顔を見合わす三人。
「僕、はいてるよ?」
「俺もだ」
「僕も……」
「ぱんだ模様のトランクス!忘れたの、誰?」
ばたばたと爽風が、物も言わずに走って行った。
「真庭さん……」
「ぱんだぱんつだったんだ……」
「ほ〜んと、修学旅行だよな、まったく」