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めもがき

2012/07/04未分類
 蒸し暑いから行水でいいと言って、彼は自分で井戸の水を汲み上げはじめた。

「え、そこで、ですか?」
「駄目か?」

 構いませんけど。
 構いませんけど、俺以外には誰も見てませんけど。中庭で躊躇いもなく帯を解き、着物を脱いで縁側に放り投げる姿は、ちょっと……いや、かなり目の毒です。

 井戸のつるべを引き上げると、滑車がカラカラと回る音が響いて、誰か来ないか心配になる。

 もちろん、ここには俺達以外には誰もいない。……連れて来ては、いない。

 この離れの支度をさせた後は人払いしたし、彼の側付も全て帰してしまった。随分と渋い顔をされたので、もしかしたら屋敷表には居るかもしれないが、それは木俣あたりが上手くやってくれるだろう。

 数日前までは、お互いに顔を合わせても私的な会話など一切する暇がなかった。本当に必要なことを確認するだけ。それでも顔が見られないよりは良いと思っていたけれど、それが一月も続くとつらい。殿の無茶ぶりはいつものことだが、たいてい俺達のうちどちらかは何事か用事を言い付かっていて。

 今日だって、本人が主張するところによると「たまたま立ち寄っただけ」の彼を説き伏せて、この時間をつくっている。
 彼が持ってきた文書は重要なものだったが、急を要するものではなかった。

 下帯だけの姿で肩から水をかけると、月の光を纏ったように見える。
 彼の身体は俺以上に傷跡だらけだが、その色は白い。他の者達と比べればひとまわり以上細く、筋肉がなかなかつかない質なのだとこぼしていたのを思い出す。それでも、家中でも指折りの華々しい武功を誇る。

「おい。」
「あ、はい。」

 その姿をぼーっと眺めてしまったらしい。何度か声をかけたのか、眉間に皺が寄っている。

「返事ぐらいしろよ。考え事か?」
「や、あの……」

見とれてましたと言うと、彼は笑った。

「物好きだな。」
「貴方だってそうでしょう。」
「そうか。」
 
 それでな、と何事もなかったかのように話を続ける彼は、普段通りの表情で、少し悔しくなる。

 なかなか素直になってくれないのは仕方がないけれど。
 彼が親友と言う人に対しては全幅の信頼を置いている上に、時折とんでもなく甘えた物言いをすることがあって、酷く黒い気分にさせられることがあるんですけどね。

 こうして目の前に居れば、そんなことどうでもよくなるのが、俺の駄目なところなんでしょうけど。 

 立ち上がって縁側まで出ると、彼は行水を終えて身体を拭いていた。
 この身体が傷ひとつなかった頃の事は、俺は知らない。13才という年の差は時に無限にも思える。決して手が届くことはないんじゃないかと。
 この人が欲しいと最初に考えたのは何時だったのか、もう思い出せない。気がついたらそうなっていた。顔にも態度にも出していたつもりは全くなかったのに、見抜かれていた……尤も、自覚する前は当然隠すこともできなかった訳で、そのせいかもしれない。

「その時に俺は言ったんだよ、兄上は甘味がお好きだから、機嫌をとるなら甘いものが良いですよって。七之助殿は……」

俺が近づいたのにこちらを見ない。それに先程からずっと喋り続けてる。

「榊原殿」

手と言葉が止まった。

「……榊原殿。」
「なんだ。」
「こっちを見てくださいよ。」

僅かに間があってから振り向いた顔は、やや伏せられていた。

「照れてたんですか?」
「聞くな。馬鹿。」

 今度は俺が笑う番だった。

 また向こうを向いてしまう彼を、庭に降りて背中から抱き寄せる。ひんやりとした、少し湿った身体は心地良い。
 彼はそれでもこちらを見ずに、空を見上げていた。

 一見大人しそうに見えても、その内側は激しい魂を持っている人だ。それは嫌というほど知っている。しかし、今こうして抱きしめていると、その激しさはどこかに置いてきてしまったかのように見える。

 俺の腕の中で、今は月を見ている、うつくしい、ひと。

「月は好きだな。」

ぽつりと、そう呟いた。

「眠れない時はよく月を見ていた。一人で歩いて。」
「……お一人で、夜の散歩ですか。」

少し咎めるような口調になってしまったのは仕方がない。夜歩きの物騒さは当然彼のほうが良く知っているのだろうけれど。

「城内ならそれほど危険じゃないし、穴場もある。」
「岡崎城ですか、浜松城ですか、駿府城ですか。」
「全部。」
「年期が入ってると……」
「まあな。」

悪びれもせず淡々と話す横顔は、いつもと違う。

「今はもう、する必要ないでしょう?」

 応えはなかった。
 俺が唇を塞いでいたから。

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